Black Hawk

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獲物はスプリント 横山典の熱き進言

 その時、お告げがあった。「先生の馬はGTのマイル戦じゃちょっとキツい。本質的にはスプリンターだと思うよ」。声の主は横山典だった。「あの時、ノリちゃんはアドマイヤカイザーに乗っていて、揚がってきたらそう話しかけてきたんだよ。それに『オレ、スプリンターズSはあいてるよ』って売り込んできた。ちゃっかり商売もしてたってわけ。そこでオーナーと相談したら、ノリちゃんと同じ考えを持ってたらしくて、スプリンターズSに行こうと決めたんだ」

 横山典は自分の手を離れてからも常にブラックホークの動向を気にかけていた。手綱を取っていた時の感触、近走のレースぶりからみて、そうアドバイスしたのだ。それにスプリンターズSに行けば武豊にはアグネスワールド、蛯名にはマイネルラヴがいるから鞍上があく。ドンピシャリのタイミングでの売り込みは効果絶大だった。以後、横山典・ブラックホークは不動のコンビとなる。

 今回結果が出なければ、これから先もGTは勝てないのではないか。国枝はそう思って究極の仕上げを施す。それまでは脚元の様子をみながら調教を行っていたが、ダメなら休ませればいいという気持ちで腹をくくった。直前追い切りではビッシリ追って坂路34秒6の自己ベストを叩き出した。厳しいトレーニングを課しながら馬体重はマイルCSより10キロ増え、デビュー以来最高の534キロ。数字が絶好調を物語っていた。

 競馬は時として、馬の力関係とは別の要素が入り込んでいたずらをする。仏GTアベイユドロンシャン賞を制したアグネスワールドは帰国初戦のCBC賞も勝った。スプリンターズSも勝てば、最優秀短距離馬のタイトル争いでエアジハードと、一騎打ちに持ち込める。マイネルラヴの蛯名はエアジハードの主戦。蛯名にすれば、武豊のアグネスワールドにタイトルを渡したくない、という潜在意識があったのは間違いない。2人の思惑がからみ、ブラックホークにとってはこれ以上ない絶好の展開を作り出したのだ。

 トキオパーフェクトが逃げてアグネスワールドは2番手。武豊としてはどこかでタメを作り直線勝負に余力を残しておきたかった。ところがマイネルラヴがガンガン引っ掛かって接近する。3コーナー過ぎで外から馬体を併せにかかり、そこからビッシリ競り合う展開になった。これでは2頭とも息が入らない。直線に向いて先にマイネルラヴがバテた。アグネスワールドは驚異的な二枚腰の粘りを発揮したが坂上でガソリンが尽きる。2頭の動きを射程圏でマークしたブラックホークがゴール寸前、測ったように差し切った。黒鷹は遂にデッカイ獲物を射止めた。

 「この馬のスピードと切れ味を生かすにはマイルより1200メートルの方がいいと思っていた。もう一度乗ってみたかったし、競馬や調教を見て成長しているのは分かっていたからオレなりに自信を持って臨んだ。道中で脚を使いたくなかったので仕掛けのタイミングを待ったが、アグネスに離されたくなかった。4コーナーを回って思い切って行ったのが結果的によかった。これで後ろから差されたら仕方がないという気持ちで行った。うまく運ぶ時はこういうものだね」

 してやったりとはこのことだ。横山典はいつになく晴れやかな笑顔を作った。自分が進言したことが、絵に描いたような結果になった。ジョッキーにとってこれほど痛快なことは滅多にないだろう。

 国枝は直線半ばから頭がパニック状態になり、周りの調教師がビックリする大声で絶叫していた。勝ったと分かった時は全身の力が抜け、天にも昇る気持ちだったという。

 「ノリちゃんには地下道から本馬場に向かう時、『ゴールで1着になってくれ』と言ったんだ。アグネスを目標に競馬してるなと思ったが、おあつらえ向きの展開になってくれたね。直線の坂にかかるまでは冷静だったけど、イケルと思ったから大騒ぎ。ゴールに入った時、『やったあ』って何度も絶叫してたらしい。一番驚いたのは普通の重賞と違って馬場内で表彰をやる時の雰囲気だね。内ラチから外ラチまでカメラマンがズラリ構えていたからビックリ。人も馬も初めてだったからイレ込んで物見しちゃって、てんやわんやだったよ。GTというのは違うんだなと思うと、胸にジーンと熱いものがこみ上げてきた」

 距離適性が明らかになったブラックホークは、スプリント路線中心に歩むことが決まった。休養明け初戦は阪急杯が選ばれた。この時、関係者をヒヤリとさせる事件があった。阪神の出張馬房でイレ込み、場房の壁を蹴飛ばして穴を開けてしまったのだ。幸い外傷もなく無事に好走。好位置から直線楽に抜け出し格の違いをみせつける。スプリンターとして強固な地盤を築いたかに見えた。

 だが、それまでの境遇から目標にされる立場に変わっていた。力関係が拮抗している場合、追われる側より追う方が有利になる。もちろん、脚質の違いとかではなく人間の方の気持ちの問題でだ。GT連覇を狙った高松宮記念は追われる身の弱点が出てしまった。小回り中京コースで17頭立ての16番枠。カーブがきつい3、4コーナーで外に振られないためには、前半いいポジションを確保する必要がある。スタートダッシュを決めて素早く好位につけたが、そこまでに脚を使ったのが響いた。直線でアグネスワールドと競り合う外からキングヘイローが強襲、Vをさらって行った。結局、4着に沈んでしまう。

 目標にされるとね、どうしても横綱相撲になっちゃうわけだよ。みんながみんながウチのを負かしにきたから、コース不向きといわれたキングヘイローにやられた。ノリちゃんは『中京の1200メートルはGTをやるコースじゃない』と言ってたね。ただ、馬の雰囲気がいつもよりおとなしかったことも確か。レースが終わっても全然ケロッとしていた。生き物なんだから、やる気がない時もあるよ」

 国枝は諦めがついた。あるいは、直前追い切りで出した坂路34秒1という、美浦坂路の調教レコードが結果的にはオーバーワークだったのかもしれない。ともかく、スプリントの重賞路線は一段落。そこからマイル路線を使うしかなくなった。

 京王杯SC。横山典は今度は積極策に打って出た。2番手キープから直線半ばで抜け出し突き放す。完全な勝ちパターンに見えたその時、道中は最後方に待機した武豊のスティンガーが超特急の速さで大外を突き抜けていった。勝ったと思った横山典は、唖然として苦笑するしかない。

 2度目の安田記念も完敗に終わる。直線インから抜け出しかかったが坂上で止まり、最後は馬群にのみ込まれて9着。国枝は「好スタートを切って抑えて海苔ちゃんは直線勝負に出たんだけど、コースの内外で全然違っていた。内を回った馬は全然伸びなかったからね。でも、そういうのも含めて負けは負けだから、やっぱりGTのマイルではダメだな」と、すっかり自信を喪失した。

 3度目の危機が訪れる。放牧から戻って調教を開始すると、ノドから異様な音が出るようになった。それが、いわゆるノド鳴り(喘鳴症)なら一大事だ。気管の入り口が正常に開かなくなるため呼吸が苦しくなり、競走能力に悪影響が出てしまう。手術をしても完全に治るケースは滅多にないから関係者はドキッとしたが、耳を澄ますとノド鳴り特有の「ヒュー、ヒュー」という音ではなく、「ゴロゴロ」と聞こえた。検査の結果はDDSP(軟口蓋背方変位)だった。

 DDSPとは同じノドの病気でも、のど鳴りほど深刻ではない。走行中にセキをしたりノドがゴロゴロ鳴り、時として窒息したようにスピードが落ちる。一般的には炎症が原因で起こり、免疫力が低い若馬や夏場、短距離馬に多くみられるが、年齢とともに良化するとされる。ブラックホークのように7歳(旧年齢)になって発症するケースは珍しかった。

 自分で内視鏡を覗いて見て国枝は自信を持った。「DDSPは走っているうちに呼吸口がうまく開かなくなってゴロゴロいう。気管が半分塞がるから呼吸が苦しくなるんだ。でも、内視鏡でブラックホークのノドを覗いたら、まん丸の満月みたいに大きかった。あれを見た時、GTを勝つような馬は普通の馬とは違うと感心したね。構造がもの凄い。あんなに張りのある内部を見たのは初めてだよ。外見じゃ分からない。獣医が心臓に聴診器を当てて、音が違うというのといっしょ。心肺機能、筋肉からなにからそろっていないとGTは勝てないんだと思ったね」。

 DDSPが実戦に影響がないことは秋緒戦のセントウルSで実証される。ビハインドザマスクがインを強襲して勝ったが、直線で前が窮屈になり外に持ち出した分の差。内容的には勝ちに等しい。スプリンターズS連覇に向けての試走としては上々といえた。

 知らぬ間に、スプリント路線は新しい勢力が力をつけていた。スプリンターズSは英ジュライCで海外GT2勝目を挙げたアグネスワールドVsブラックホークの一騎打ちの様相を呈していた。ところが、まったくノーマークだった最低人気のダイタクヤマトに足元をすくわれてしまう。アグネスをハナ差まで追い詰めるのが精いっぱい。次のマイルCSは見せ場も作れず8着に終わる。マイルGTの壁はどうしても乗り越えられない。難局は続く。CBC賞では重賞未勝利だったトロットスターに完敗。年齢的にもうピークは過ぎたという声もささやかれ始めていた。

 年が明けても状況は好転しなかった。初戦の阪急杯はダイタクヤマト、高松宮記念はトロットスター、京王杯SCはスティンガー。いずれも以前に苦杯を喫した相手から返り討ちに遭った。それも毎回0秒1、0秒2差でしかない。こういう負けが続くと関係者はストレスが溜まる一方だ。

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