Rosen Kavalier

ローゼンカバリーの引退を機にちょっと綴ってみたよ。
文体がめちゃめちゃなのは許してね。勢いが大事っしょ。
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Dear my Friend

どうしてこれほどまで好きになったのだろう。ダイナアクトレス、イナリワン、メジロマックイーン、バランシーン(英オークス・愛ダービー)、ヒシアマゾン、ボスラシャム(英1000ギニー・チャンピオンS)、エリシオ(凱旋門賞・サンクルー大賞典)、アブクマポーロ、そしてブラックホーク・・・。これまで幾多の名馬のことを好きになってきた。どの馬も明らかなほど超一流の実績を修めている。しかし敵わなかった。生活環境を変えるまでには至らなかったのだから。ダイイチリカー、セプテンバーソング、そしてサマーサスピション。先に産まれた兄姉たちにも然したる興味はなかった。しかし2歳の頃からダイナフェアリーの93のことは知っていた。「身のこなしの柔らかい馬」ということで白老では話題になっていたから。結果的にそれは連戦しても疲労が残らないというところでしか発揮されなかったようだが。3歳の初秋、『ローゼンカバリー』と馬名登録されたのをギャロップのPOGで知った。同じページの隣の方には確かロイヤルタッチの名前もあったハズ。しかしそっちには見向きもせず応募しそして外れた。だがずっと見ていくことは決めていた。全兄サマーサスピションには父サンデーサイレンスからもらい受けた流星とソックスがあった。ゆえに切れた。そして故障した。しかし弟は正反対だった。丈夫で長持ち、体型からして明らかに母ダイナフェアリー似で白徴は1つもなくズブくていつもパドックではチャカつかずのんびりと大渋滞を巻き起こしていた。だから写真は撮りやすかった。お椀の奥には何を思う瞳があったのか。でも厩舎に帰ると途端にヤンチャになった。みんなにじゃれて噛み付きにいった。 初めて会ったのは1996年1月28日のことだった。記念すべき初出走、4歳新馬戦。この時から全ては始まった。1週間後に大学入試を控えた身でありながらももちろん大切な初戦ということで府中に行った。1番人気は大嫌いなサクラの馬、勝太郎曰く「今年のダービー馬」サクラケイザンオー。しかし武豊の激に答え、見事ゴール前で競り落としマッチレースを制した。思えばこの時から隣の馬と並んで走ることを楽しんでいたのかもしれない。突き放す余力はあるのにそうしようとしない。だから外から一気に差してくる馬に弱かった。並んだら抜かせない。でも離せない。ブリンカーを付けてもその本質は変わらなかったような気がする。この日はクイーンCで好きなイブキパーシヴが勝ってそっちでもいい思いをした。2戦目は京都に飛んでつばき賞。しかし4コーナーで目に見える不利を受けダイイチキャプテンに届かずの2着。これはレース当日中に見ることが出来なかった唯一のレースとなった。当時はまだメインレース以外の関西圏の中継がなかったから。その京都記念を制したのはテイエムジャンボ。この後小倉記念で痛い目に会う。共同通信杯4歳Sはサク・・・オー。ムカツクから言わない。3戦目は水仙賞。ここからは柴田善が乗る。ヘンな人にノリ変わるまで。前日あの歴史的阪神大賞典が行われた。「ブライアンか、トップガンか。わずかに外、ブライアンかぁぁ〜。」レース終了後すぐにビデオを10回以上見た。武豊と同じく鳥肌が立っていた。これが競馬だ。またひとつ競馬が好きになった。でやる気に満ち溢れていて、さらにいつの間にか受験も終わっていたため、初の中山出陣を決意していたが突然従兄弟の家に連行されるハメになり行けずラジオで勝利を祝う。でも行かなくてホッとした。中山記念を13ヶ月振りのサク・・レルが勝ち、ジェニュインは2着に敗れたからだ。もうこの頃には私のジェニュイン熱は冷めていたとはいえやりきれない。結局1番熱かったのはセントポーリア賞の頃だったかもしれない。そして皐月賞、東の最終兵器と言われながらも除外。結果はイシノサンデー。ホントあの厩舎はいつまで経っても使い方が下手。のんびりしてるからみんな路線に乗り遅れてしまうのだ。でも好きだけど。仕切り直しの青葉賞。この日は学校で講義中にラジオ。兄も通った道。内にいた皐月賞3着馬・メイショウジェニエを競り落とすも離れた外から来た3頭に差され4着。ダービーの権利取れず。勝ったのは山石。高橋はどこに行ったのだろうか。次はダービー当日の残念駒草賞。この日も学校ラジオ。しかし1番人気は西で大器と誉れ高かったアラバンサに譲る形となった。この時点で先週、オークスを制していたエアグルーヴとともに凱旋門賞に登録されていたのだから恐れ入る。しかしその実力にはさらにマイッタ。見せ場のない10着。でもそれで好きになった。連れて彼も5着と共倒れ。勝ったのは前日、夢に出てきたマイネルワイズマン、ナゼッ? でもこの日は全て許された。ダービーを◎フサイチコンコルド○ダンスインザダークで取ったから。講義中に興奮してしまった。シンイチじゃなくて伸二にしといてよかった。で放牧前の1戦、代替開催中山でのしゃくなげS。初ブリンカー装着で楽勝。でもこの時はタイガーマスクではなくただの紫メンコだった。褒美に夏休みをもらう。で復帰戦はセントライト記念。中山に行く気だったにもかかわらず台風の影響で1日順延しオジャン。田んぼのような馬場をスイスイと泳いで大楽勝。1番人気のイシノサンデーは動けず4着。2着にはまたもやサクラケイザンオー。しつこいなぁ。でもこの予想は当たってた。月曜開催だったので今度は語学の授業中にラジオだった。初GT挑戦の菊花賞。東の秘密兵器、いよいよクラシック初出走。しかしホントに秘密だったらしく道中ほとんど呼ばれず11着。押し出されたとはいえ逃げていたにもかかわらず。京都新聞杯までさんざん馬券でお世話になって好きだったダンスが何故かこのレース前は嫌いだった。勝つのがわかってたからかな。この日はお茶の水の記念館でラジオだった。続いて何故出てる?の鳴尾記念。しかも負けてる。勝ったのはマルカダイシス。懐かしい。年が明け古馬になった。最初のレースはアメリカJCC。善富がキングオブダイヤに流れここからヘンな人が乗ってた。ウンのツキ。でもレースはどうしても負けられないキングを3着に抑え制覇する。試験がヤバかったらしく府中で我慢した。残念。続いてキングの雪辱戦、中山記念。1800mでは譲れないものがあったようだ。2着、4着にそれぞれ未来のGT馬、オフサイドトラップとグルメフロンティア。もしかしてレベル高いの? 中1週で日経賞。山石に借りを返す。それにしてもセントライト記念と日経賞、共に最近レベルが低すぎる。ルドルフ、ミホシンザンが見たら泣くだろうね。で本番、天皇賞・春。時は3強の時代。3.14.4ってナンデスカ。時計勝負に極端に弱いのに日本レコードで走ってるんだよ。この時限りで藤田が鞍上。何とかしてくれると思って新宿のウィンズで単複のみ買ってた。でもどうにもならなかった。続いて目黒記念。この頃からあの兆候が・・・。いくら苦手の東京でもエアダブリンに先着されちゃあいけない。この日は久しぶりの再会を堪能。相変わらず歩くの遅っ。そして真夏のGT、宝塚記念。でもこのレースは素直に応援できなかった。でも単勝はもちろん持っていた。マーベラスサンデー、タイキブリザード、バブルガムフェローの中距離3強。今でも予想をする上でのベストレースと言えるかもしれない。休み明け-14kgの後の-6kg。バブルが弾けてた。でも確固たる自信があってドカンと1点勝負。レース展開、各馬の位置取り、仕掛けどころ、ブリザードのタレ方まで全て完璧に思い通りに進んだ。レース後一人府中の指定席裏で震えてた。馬券なんて外れてもいいから勝ってくれた方がそれの何倍もうれしいことはわかるだろう。そこが空しい。この後は中途半端な放牧で調子を落とし状態最悪のまま秋を迎える。オールカマーで中山2200完全制覇をしてほしかったが仕方ないか。で復帰緒戦は天皇賞・秋。苦手東京でもあり単勝だけ。◎は1年早いサイレンススズカ。直線あわやも失速。290円じゃあ当たってマイナスも当たり前か。そして運命のジャパンカップ。致命的な出遅れについてノリの遺言「これはもう治らないね。」。誰のせいだと思ってるんだ、このバカ者。予想はピルサドスキーに目の前で跳ねられた上にあのブツを見せられちゃあねえ。290円が1000円!!「オトク」ってことで2着3着。舞台は得意の中山に変わり状態も上がってきたグランプリ・有馬記念。いつも出走する度に来る来る言ってたけど出たGTの中で1番自信があったのはこのときじゃあないかな。ローゼン−マーベラスで40倍強。坂下まではトッテモおいしかったな。でもなんだかんだで馬券は一応本線◎マーベラス○ジャスティスで取ったんだな。この時っていうかこの年の最大の汚点はこの時メジロドーベルの馬券を買ってしまったこと。いちょうSを目の前で勝たれたときから大嫌いだった。その嫌い度はサクラの馬を上回る。理由は下品すぎるから。牝馬のくせに舌出してヨダレだらだら垂れ流しながら走りやがってさ。少しはエアグルーヴを見習えって。買ったのはこの時だけ。8着。マーベラスから2点流しで買ったから一生消えない汚点なんだよね。ハァ。で6歳。この年も懲りずに同じローテーション。しかしAJCCだけは持つ意味が違った。負けられない。週中に志半ばにして逝ってしまった賢弟・パルシファルの弔い合戦。私も弔慰金として諭吉を納めた。代わりに単勝を頂いたが。でもそんなことは彼には関係なかった。いつも通りに走りいつも通りに4コーナーで射程に入れられ直線でメジロブライトに一気に交わされた。しかもマイネルブリッジにまでも。有馬記念の3着と4着の差かな。周りを気にせず自分の気の向くままに走っていた。中山記念はサイレンススズカの影さえ踏めず2着。いや、初めから踏もうとはしていなかった完全に2着狙いのレースだったかな。で21万馬券の日経賞。タイトルの背景写真、そしてパドック写真はその時のもの。まさか負けるとは。いや、テンジンショウグンはないだろ。同じ障害からでも買うならアワパラゴンのハズだよな。レース後に胴上げしてるヤツがいたしな。でも最終レースで75倍取ったから気分はよかった。終生のライバル・ステイゴールドと初対面。この時だけは先着した。あとは全敗。何故行ったのかはわからない。でも気付くと京都競馬場に来ていた天皇賞・春。早朝6時前に現地に到着した時は大雨。レースごとに晴雨が入れ替わる変な天気。馬場が荒れることだけは望んでいたが2時過ぎから快晴。発表、良馬場。でも見せ場は十分で行った甲斐があったと思う。でも3着じゃあ・・・。初めから外に出していれば突き抜けたかもしれない。レバタラ・・・。徹夜明けの宝塚記念。週中ずっとメジロブライト来ない説を訴えていた自分が何故か馬券を持っていた。そして立ち上がり。アレは発走除外だろ。でもう1つ呟いていたのは宝塚サンデー独占説。だからローゼン−スズカで決まりと。しかしもう1頭出てたらしい。そう、ステイゴールド。一年前とは打って変わっての馬券下手。言ってることとやってることが違うって何においてもよく言われる・・・。秋になり念願のオールカマー出走。なぜか安田富。そのまま4着。朝買いに行ってすぐ帰るつもりが結局レースも見ることに。その分疲れもデカかった。そして10月1週。歴史的毎日王冠の日。先の阪神大賞典とともにこの2レースはここ10年の中では最もGTを超えたGUだったと言える。あれを生で見れたのはあとで絶対に財産になるハズ。グラスワンダーが出来てなかったこともちゃんとパドックで当てたしね。ちなみにその前の世代の最高格GUはオグリキャップ−イナリワンの死闘・毎日王冠だから(独断)。でその名勝負の陰に主役はいなかった。当初出走を予定していたものの京都大賞典に切り替えていた。しかも鞍上はさらに弱化して吉田豊。やめてくれ〜、殴られる。で5着。4着ステイにやはり届かず。それどころか5馬身差。そして暗雲の天皇賞・秋。スズカの1分57秒台圧勝かと思いきやまさかまさかの隣での万券ゲット。しかも自分が買ってることにしばらく気付かんとは。後方でもがいていた。10着。その後香港国際シリーズを目指していた矢先に、挫石を起こし放牧。待ち焦がれた復帰戦はオープン、エイプリルS。堂々60kg。鞍上は菊沢徳。3コーナー過ぎから早めのまくりもバテて3着。見せ場はそれなりにあったから良しとしよう。ウ〜ン、天皇賞・春はあまり覚えてないな。どうやら9着だったようだ。勝ったのはスペシャルウィーク。股の間から覗くのが流行ってた。そして再び目黒記念。なんとなんと不得手の府中で1番最初にゴール板を駆け抜けた。この時のウィナーズサークルは狂喜乱舞だった。泣いてるヤツもたくさんいた。これでナイスネイチャ、マチカネタンホイザの両雄に肩を並べた。後は交わすだけだった。新芽を見せたことで期待していた宝塚記念。この時も気が付くと阪神競馬場に来ていた。しかしレースはグラスの独壇場。ライバル・ステイとの3着争いにも敗れレース後放心状態になってしまった。「何であの電車は京王線じゃあないの?」 放牧に出て復帰は京都大賞典。この時は勝つことが目的ではなかった。同厩で後輩のペインテドブラック、あれにだけは絶対に負けられない。もしそうならもうGT勝ちは諦めると誓っていた。そしてその時は来た。なんとあろうことか、ビリ。話にならなかった。でその結果も踏まえて次走、アルゼンチン共和国杯の時はローゼンを天秤にかけ、そして何故か海を見ていた。今思えばこれが日本最後のレースになったのだ。ちょっと後悔。で引退レースは香港国際ヴァース。お金さえあれば現地に行っていたと思う。一年越しの思いも届かず敗れていった。そして2000年5月17日、引退発表・・・。たとえどこに行っても絶対にまた会いに行く。なんで好きなのか今になってようやくわかった。何となく自分と似てるんだ・・・。

最後に・・・ メジロマックイーンの引退時、武豊はこう語っていた。「この3年間は紛れもなくマックイーン中心にやってきたっていう感じでしたからね。」 私も自信を持って言える。「この4年間はローゼンカバリーと共にあった。」と。

2000年5月17日 バイ男


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